以下 文字起こし
新徴屋敷と堂形塩硝蔵の史跡
ここから北の方大宝寺町から道形町にかけて、約七万平方メートル(七町一反部)の地域は、幕末期庄内藩の下で、江戸市中の取り締まりや戊辰戦争などで手柄を立てた、新徴組百三十名の屋敷があった所です。新徴組は有名な清河八郎によって作られた浪士組の後身で、八郎が暗殺された直後、幕府の命令により庄内藩の支配下に入りましたが、その多くは関東地方の出身者でした。慶応四年(明治元年)の春、藩主酒井忠篤の江戸引き揚げのとき、新徴組は藩主に随行して庄内に下り、初め湯田川に落ち着いたのですが、その後この土地に屋敷を与えられたのです。現在新徴組旧宅の一棟が、羽黒町の松ヶ岡開墾地内に復元・保存されています、ところでこの地には、江戸時代中期の宝永二年から幕末までの、百六十五年にわたり九十メートル(五十間)四方の堂々たる、庄内藩唯一の堂形硝蔵と呼ばれた火薬庫が置かれ、中に十八トン余(五千貫目)塩硝が収められていましたが、戊辰戦争では、この蔵の火薬が大変役に立ちました。この堂形塩硝蔵は、明治三年、先の新徴屋敷が設けられることになり、すべて取り壊されてしまいました。
平成十三年五月
松ヶ岡開墾場に移築された新徴屋敷
由来の書かれた看板より書きおこし
新徴屋敷
創建年月 明治三年
構造 石場建平屋石置屋根寄棟造
建坪 二十一、二五坪
復元 昭和六十一年十月
新徴屋敷とは、庄内藩江戸取締役の際文久三年(千八百六十三年)からその配下となった浪士組織新徴組の人達が庄内に移住してきたので、明治三年(千八百七十年)鶴岡城下大宝寺地内に藩が建てた百棟の住宅の事であります。そのうち約三十棟を明治八~九年ころに組小屋として松ヶ岡に移築してやがて開墾士各戸の住宅としました。以来各戸ではこれに改造、増築の手を加え住んでいたのであります。
このたび、創業百十五年にあたり開墾の歴史を物語る貴重な建物として永く保存するためその一棟(匹田家住宅)を移築復元したものであります。
昨日の投稿『ハクサンイチゲ』に書いた山に登れない( ゚Д゚)オラ、それでも歩きこみたいので、小春日和の鶴岡市街をブラブラと散策してみました。見慣れたはずの風景なのですが、気が付けば大発見なんて嬉しいことがあるかも?と期待しながら歩み続けます。
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